オシャレじゃない自分がオシャレ映画『Somewhwre』(監督ソフィア・コッポラ)を全力レビュー

4月2日から公開されているソフィア・コッポラ監督の最新作『Somewhere』を遅まきながら観てきました(ソラリアシネマにて)。作品レビューというより『オシャレプロパーじゃない人に向けたソフィア・コッポラ作品の楽しみ方』になってますがご了承くださいw

ソフィア・コッポラは『ゴッドファーザーシリーズ』でお馴染みの巨匠・フランシス・フォード・コッポラの娘で1999年に『ヴァージン・スーサイズ』で監督デビュー。東京を舞台とした2作目『ロスト・イン・トランスレーション』ではアカデミー賞脚本賞を、3作目『マリー・アントワネット』ではアカデミー賞衣装デザイン賞、今作『Somewhere』ではヴェネツィア国際映画祭金獅子賞をそれぞれ受賞しています。
また日本においては、レディースアパレルブランド『MILK FED.』のデザイナー(現在はデザイナーの座を退いている様子?)として知られているのではないでしょうか?

スノビズムに溢れカラフルなポップアイコンで彩られるソフィア・コッポラの作風を一言で形容するなら『オシャレ映画』という言葉で雑に分類できてしまうわけですが、しかし大型シネコンが幅を利かせ単館系の映画館がバタバタ潰れていった2000年以降、『オシャレ映画』って言葉もなかなか聞かなくなりましたね。もはや死語と言ってもいいレベルですが、それでも新作の度に全国ロードショーされるソフィア・コッポラ作品はオシャレ映画ファンにとっては貴重な存在と言えるでしょう。

しかしそんなソフィア・コッポラをもってしてもオシャレ映画衰退の波に勝てないのか、今作『Somewhere』では封切時の上映シアターが全国で30館程度と非常に寂しい事態になっています。
これは公開当時にたくさんのテレビCMが流れ、大型シネコンでも広く上映された前作『マリー・アントワネット』の大コケが多分に影響していると思われます(僕は好きな作品ですが)。

『マリー・アントワネット』が酷評された点を大雑把にまとめると「ゴージャスなドレスと綺麗な靴、カラフルなお菓子や宝石たち。全編を通してビジュアル面だけに特化しておりドラマ性が皆無。話に抑揚も無くそもそも史実物映画として体をなしていない。」といったところ。
「コッポラの娘!」「前作はアカデミー脚本賞受賞!実力は折り紙付き!」「題材は大ネタのマリー・アントワネット!」「ヴェルサイユ宮殿で完全ロケ敢行!」ともなれば自然とハードルが上がるのも仕方の無いところです。
こうして公開前に『大作史実物映画』に仕立て上げられたのが敗因かもしれません。たまたま通りかかったラーメン屋が行列を作ってたから「これは美味い店に違いない」と、1時間並んで食べてみたものの大したことなかった時の苛立ちと似た感じでしょうか。

これから本作に触れようという方で、今までソフィア・コッポラ作品を観たことがないという方に気に留めていただきたい点が「決してドラマ性を求めてはいけない」ということ。身も蓋もないこと言ってますがw
パンフレットにも掲載されており、公式のものと思われる本作のあらすじは以下の通りです。


-あらすじ-
ハリウッドの映画スター、ジョニー・マルコ(スティーヴ・ドーフ)は、ロサンゼルスのホテル“シャトー・マーモント”で暮らしている。フェラーリを乗り回し、パーティで酒と女に溺れる彼の日々は、表面的な華やかさとは裏腹に、孤独で空虚だった。そんなある日、彼の元を前妻レイラと同居する11歳の娘クレオ(エル・ファニング)が訪れる。夜までクレオを預かり、スケートリンクで優雅にターンするその姿に拍手を送るジョニー。クレオを家へ送り届けると、乱痴気騒ぎに明け暮れるいつもの毎日が彼を待ち受けていた。新作の取材対応や特殊メイクの型取りなど、俳優としての仕事をこなすものの、どこか落ち着かない。隣室の女と情事を済ませて部屋を出ると、そこには再びクレオが荷物を抱えて立っていた。レイラが家を空けるため、しばらくジョニーのもとで暮らさなければならないという。ジョニーの友人サミー(クリス・ポンティアス)を交え、ゲームに熱中する3人。数日後、授賞式に参加するため、クレオを伴ってイタリアを訪れるジョニー。だがクレオが寝た隙に、ジョニーは部屋に女を招き入れ、翌日の朝食は3人が顔を揃えることに。盛大な授賞式に参加したものの、ジョニーとクレオは疲れ果てて逃げ帰ってゆく。シャトーで過ごす穏やかな2人の時間。ジョニーの肩にもたれ、うたた寝するクレオ。ジョニーが寝ている間に朝食の支度をするクレオ。そして、他愛のない会話。それは、本来なら父と娘が触れ合うごく普通の風景だった。やがて訪れる別れの日。悲しんで泣くクレオを抱き寄せるジョニー。別れ際、一緒にいられないことをクレオに謝罪する。一人きりで部屋に帰ると、たまらずレイラに泣きながら電話する。しかし……。ジョニーはホテルをチェックアウトして、フェラーリをどこかへ走らせて行く。そして彼はフェラーリを捨て、もう一度歩き始められる場所に辿り着くのだった……。


「そして彼はフェラーリを捨て、もう一度歩き始められる場所に辿り着くのだった……。」
これエンディングです。あらすじだけで映画1本終わっちゃいました。
さらに言うとこのあらすじを読んで以下の予告編を見ればこの映画のほとんどを把握したといっても過言ではないと思います。

全編を通してセリフが少なく、登場人物が自分の苦しい胸中を説明的に吐露するといった分かりやすいシーンは終盤の一部を除いてほとんどありません。そして全編をあらすじだけで把握できてしまうストーリー。つまりこの作品はその骨子を言葉に委ねていないということを表しています。

例えば、この映画で最も印象的なシーンは予告編にもありますが、The Strokesのレア・トラック『I'll try anything once』に載せた水中でのティーパーティのシーンでしょうか。

このシーンまでの音楽の使われ方というと、パーティ中に誰かがかけている音楽だったり、デリバリーのポールダンサーが持ち込んだラジカセから流れている音楽だったりと、シーンの中に溶け込ませていたものであったのに対し、ここではっきりした劇中歌としてフルコーラス流れます。
また、車の中やベッドの上、食事中やTVゲームの最中など、この映画の中の父と娘はずっと横に並んで位置していたものがこのシーンで初めて(?)真正面から対峙します(これが『水中』での出来事であったことも深読みする余地ありますが長くなるので割愛)。


BGMに関してもう一点、物語の序盤、フェラーリのエンジン音に溶け込ませていたBGMもエンディングでは徐々にエンジン音から独立してひとつの曲(Phoenix『Love like a sunset part.2』)として聞こえ最後にエンドロールへと繋がります。


まとめると、ストロークス流れる⇒父娘が対峙する⇒けれども車の中で娘が泣くシーンは元通りの横並び⇒長年住んだホテルをチェックアウト⇒最後にPhoenix流れるといった構造です。非常に数学的ですねw

つまりセリフ以外の部分、音楽や構図の変化からも登場人物の心の変化を感じ取れ、という観る人にとっては大変不親切な仕様になっています。しかし、こうした『黙して語らず心の機微を感じ取れ』というスタンスは我々日本人の感性や文化的慣習と近しいものを感じます。そういう意味ではソフィア・コッポラ、日本人向けの映画監督だと個人的には解釈しています。


そして僕がソフィア・コッポラに対して日本人、とりわけ中年に差し掛かった男性として同様なシンパシーを感じる部分がもう1点。
これを書きたいがために今まで真面目な顔してもっともらしいことをダラダラと綴ってまいりました。いきなりこれを書くと炎上しそうなので……。


カメラ越しに金髪ネーチャンを捉える目線が日本のエロオヤジのそれ




この方の映画はセレブでハイソでスノッブでオシャレだから誰も今までこのことを突っ込みませんでしたがこれ重要ですよ。
悪いですけどゲーリー落合、ソフィア・コッポラの作品を毎回楽しみにしている理由の半分くらいはこれですからね。センセーショナルに『エロオヤジ』と書きましたが性的な意味合いでなくむしろ目の保養、今度はどんなカワイコちゃんをどれだけ可愛く撮ってくれるか。ここにメチャクチャ期待して観にいっています。

今作のヒロイン役クレオを演じるのは、余裕でこども店長の10倍は稼いでいるであろう天才子役、ダコタ・ファニングの妹のエル・ファニングなのですが、まぁこの映画の中の娘・クレオの愛らしいこと。
サラッサラのブロンドヘアーと透き通るような肌にノースリーブギンガムチェックのワンピース。最高ですかー?最高です!
しかし、次のエル・ファニングのインタビュー動画を見ていただきたい。

ペラペラと良く喋り、オーバーな表情やボディランゲージも含めていっぱしのハリウッド女優的な佇まいをしています。いかにもアメリカ女性って感じですね。強さのようなものを感じます。
喋りも柔らかくどちらかというとヨーロッパ的なキュートさを持つ映画の中の『クレオ』とはだいぶ印象が違いますね。「Hi,dad」と優しく起こすクレオはどこにもいません。

このクレオと中の人とのギャップについてはエル・ファニングの演技力に依るところもあるとは思いますが、多くはソフィアの『女の子を可愛く見せる』プロデュース力に他ならないと思います。
ソフィア・コッポラ、以下の点については映画界の中では間違いなくトップクラスの才能があると思います。


『金髪の娘を可愛く撮ること』
『金髪の娘のノースリーブ姿を可愛く撮ること』
『金髪の娘のドレス姿を可愛く撮ること』
『金髪の娘の脚を魅力的に撮ること』


ここまで読んで「ソフィアはそんな下品な人じゃないわ!くたばっちまえこのゲス野郎!!」とお思いになったファンの方、この4点についてはどうですか?これ絶対間違ってないと思いますよ。

やたら『金髪の娘』を連発しましたが、事実ソフィア4作品のヒロインは全て金髪ロングヘアーで『ロスト~』を除きすべてティーンエイジャー、デビュー作に至っては金髪の5人姉妹ですよ。ここには金髪の少女への監督のただならぬこだわりとフェティシズムを感じます。
往々にして欧米の女の子は大人になるにつれて妙に骨格がゴツくなったり激太りしたりしますよね。実際欧米人が一番美しいと思える時期は10代前~中盤だと思うんですよ。ロリコンが多いと揶揄(アグネスチャンを中心に)される日本人男性なら分かっていただけると思います。

その辺ソフィアと日本人男性の美意識は実は非常に近しいものだと思え、そのことはまたしても処女作『ヴァージン・スーサイズ』で証明されているわけです。
この映画は『僕ら』と名乗る冴えない童貞臭い男の子4人組の目線で、美人5姉妹を追っていくというアングルが取られています。女性監督なのにカメラ越しは男性目線なんですね。そこが凄いと思いますし、同時に親しみを覚えるわけです(日本に住むエロオヤジとして)。


綺麗な色をしたケーキやマカロン、純白のドレス、ピンクのボブヘアーのカツラ、日記に貼られたカラフルなシール、ギンガムチェックのノースリーブワンピース。
こういった『女の子イコン』で徹底的に固めて『女の子にしか分からない世界』と思わせながら、カメラ越しの目線はがっちりオヤジという両性的なバランスが素晴らしいと思うわけです。こんなユニークな映画監督が他にいるでしょうか?



以上、長くなりましたが何を伝えたかったかというと、ソフィア・コッポラはここ日本においては『オシャレ映画』という括りで『オシャレ人間』(自称)のための映画監督みたいになっていますがそんなスモールサークルだけで評価されるのは非常にもったいないと。自称『オシャレ人間』(自称)が持て囃すから余計に叩かれ、単一的な評論で埋め尽くされる。ホントにもったいないなと。そういうことです。


恐らく今後の作品もそんなオシャレピーポーに向けたマーケティング(このへんの記事参照⇒『東京独女スタイル』『ELLE online』。しかし『ガーリー番長』て。。。)が繰り返されていくと思いますが、そこのエロオヤジのみなさんも興味があれば臆することなくこの映画を観るなり過去作品をレンタルビデオ店で手にとるなりしていただければ幸いです。


最後にこの映画の個人的な感想ですが、youtubeに予告編がupされて1年弱。この予告編が完璧過ぎました。自分の中で無駄にハードルを上げてしまった!
しかし、パートナーと一緒に観にいったのですが事前に「シナリオには期待しちゃダメ!」「映像と音楽とファッション!」と雑にエクスキューズしていたので、なんとか2人眠らずに鑑賞できました!


……って、イマイチやったんかーい!って話ですが、正直な話、鑑賞後に顔を合わせてやや苦笑いをしながら「予想通りやったね」「まぁ覚悟は出来てたし、いっか!」と、こんな感じでした。
しかし今でもストロークスの名曲とともにあの退屈だけど優しく心地よく流れる時間ははっきりと刻まれていて、もう一度観たいな、そう思わせる作品でした。

あと終盤のスティーブン・ドーフが電話しながら号泣するシーンはドーフ自身のアイデアだそうですがあれは余計だったかなぁ。あそこで泣かせたことでエンディングにかけての流れが軽くなった印象。


↓長文読みたくない人専用まとめ↓

こういう人にオススメ
・パツキンネーチャン(しかし若い時限定)が好きだ!
・ハリウッドセレブの世界をのぞいてみたい!
・カワイイ小物や洋服が大好き!

こういう人は見ちゃダメ
・劇的な展開が無いとつまんない!
・スノッブなものは体が受け付けない!
・3次元とかありえないから!

※画像は『Somewhere』公式サイトより引用
※福岡では『ソラリアシネマ』で上映